2011年5月アーカイブ

生きる力を育てる

昴の会の2周年で、講演をした。テーマは「生きる力を育てる」。
昴の会は、2年前に北斗市に誕生した不登校の親の会だ。

IMG_4611-5.jpg昨年不登校の子どもたちの昼間の居場所「自由高原」を閉鎖した。10年間の活動の中で得られた人のつながりと資金を有効活用するため、今年「不登校情報センター南北海道」を立ち上げたた。今回の講演会は、その「不登校情報センター」のお披露目もかねている。


内容は不登校への対応について。不登校については、今までいろんなところでお話してきたが、あるインスピレーションがあって、今回は内容を一新した。



まず、不登校に関して、問題の所在が「学校に行くのか?行かないのか?」ではなくて、「どんな風に大人になるのか?」にあることを確認する。


そして、不登校に対する対応を、第1段階「学校に行かない子どもを認める」、第2段階「社会的な訓練を始める」の2段階に分けて考える。


「学校に行かない子どもを認める」ことは、今までもたくさん言われてきているが、「社会的な訓練を始める」ことは、普通はあまり強調されてない。しかし、社会的な訓練の段階を見通しながら関わることがとても大切なのではないかと思う。単に行かないことを受け入れるだけでは子どもは前に進めない、私たちには子どもを一人前の大人にして社会に送り出していく責務がある。


また、実は社会的な訓練を意識して関わることが、学校に行かない子どもを認めることを容易に進めることにもつながっていく。


さて「社会的な訓練」は、どのように行うのか?それがすなわち、今回のテーマ「生きる力を育てる」ことだ。「生きる力」を3つに分けて考える。


1)「自分が好きになる」
2)「人が好きになる」
3)「仕事が好きになる」


それぞれの内容を、アドラー心理学を援用して具体的に説明した。社会的な訓練は、学校に行っていようと、行っていまいと必要なことだ。学校に行くことは社会的な訓練のひとつの方法(とても効率よく、かつとても有用な方法ではあるが)にすぎない。


そこで、第1段階に戻って、「学校に行かない子どもを認める」話。まずは、私たち保護者や支援者が援助する力を持たなければならない。そのためには、自分を受け入れること、しかし不登校の子どもを抱えると、どうしても怒り、不安、悲しみなどの否定的な感情に押し流される。


自分が感情的になっていることに気づくことからはじめる。否定的な感情は、自分になにか危険が迫っているという恐れから生まれる。その危険から自分を守ろうとするための防衛反応なのだ。でも、本当に私を守らなければならないのだろか?


「わが子の不登校が"私"にとってどういう意味があるのか」と考えるから、身構えて"私"を過剰に守ろうとしてしまう。不登校をしているのは、私ではなくて子どもなのだ。「わが子の不登校が"社会"にとってどういう意味があるのか」と考えると、"私にできること"が見えてくる。


否定的な感情におぼれている場合じゃない。子どもにとって一番身近で、最もいい影響を与えられる保護者のできることは大きい。今、あわてて学校に行かせなければとあせるのではなく、ある長いスパンの中で社会的に訓練することをはじめよう。


そこで、「子どもを勇気づける」ことをはじめる。
○子どもに感謝しよう
 生まれてきてくれたこと、今そこに生きていること、どれだけ人生が豊かになっているか?
○子どもを信頼しよう
 子どもは発展途上、どんな素敵なところがあるか?力、強さ、可能性を見よう
○子どもを尊敬しよう
 たった1人のかけがえのない人、私とは全く違う人格(個性、感性、考え方)をもっていることを尊重する


概略、以上のようなことを話した。「不登校」をキーワードに、アドラー心理学を通じて考えてきたことが、しっかりまとまったように思う。人に話すことを通じて、自分が成長していることを感じる。とてもありがたいお仕事をいただいた。
〔ブログ「上藤城物語」 http://harutaka213.blog62.fc2.com/ より転載〕


【高柳 滋治 2011年4月29日】

月1回のペースで個人的に開いているアドラー心理学研究会は8回目を数えました.今回から,10~12時の午前の部と,17~19時の夜の部の2部構成で開きました.午前が都合がいいという人たちと,夜が都合がいいという人たちのためです.なんて親切なんでしょう.


まあ,2部構成にしても何ということはないだろうと思ったのですが,意外にも,とても疲れました.それは,単に時間が長かったということではなくて,先週,大阪で学んで来たライフスタイル分析を実際に自分でやってみるということを練習したからかもしれません.野田先生は「場数を踏め」といいますが,これは相当しんどい仕事です.


まあ,疲れたは疲れたのですが,分析をする方としては,新しい世界を見たような衝撃を受けました.クライエント役の人の世界の見方を分析することは,まるで初めての見知らぬ土地に1人で旅行するようなものです.「ああ,こんな世界の見方があるんだ,しかも,この人はそれをまったく当然のこととして生活している」という驚きです.


【向後 千春 2011年4月7日】