A先生のお見舞い  (「ルマー・キタの日 普通でいることの勇気」より)

 私は受付でA先生の病状を聞いてから、病室に行きました。

 A先生はベッドに寝かされたまま、一人で居られました。静かな病室で、ほとんど音もしません。本を読んだり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、何かを食べたりという楽しみはなく、ただ天井を見て暮らし、看護士さんとのやりとりが少しあるだけという生活のようです。

 私は「久しぶりです。ご無沙汰していました。」と話しかけました。「見えてますか?」と、言いますと、A先生は両目をしっかりと見開きました。でも、固い表情です。

 私は絶望を感じてしまいました(私の勝手な思い込みです)。それから何を話してよいやら困りました。絶望しているだろう彼に対等な関係で話しをする言葉を失ってしまったのです。「I am not OK.You are not OK」です。彼の表情は益々固くなったように思いました。私は何をしにここへ来たのだ?

 私が言葉を失い、どうして対等な関係をつくればよいか、おたおたしている状態を彼は見ています。その見られている自分が情けなくなりました。彼と特別の友達であったはずの私が、その他大勢以下の、彼を哀れんでいる卑しい人間に思えて、その場を逃げ出したくなりました。

 私はお見舞いに来たことを、素直に表現することができませんでした。「お見舞いに来ました」と言いながら、和らいだ表情で彼の前に素直に存在するだけでいいのに、それが出来ません。
 
 私はリュックサックを開けて、持っていた本「生活の貧しさと心の貧しさ」をめくりました。その中のどこかを朗読し、私が現在読んでいる本について、その面白さを分かち合おうと考えたからです。

 この本は大塚久男という経済学者の講演や対談を編集してつくられた本です。私は本をめくり、どこの一節を読もうかと探しました。そのごそごそしている時間の長かったこと。しかし、A先生は和らいだ表情で、私がごそごそしているのを待っていてくださいました。

 私は大塚久男さんが詩人の集まりで講演された部分を読むことにしました。その講演は、ある詩を読んでの大塚さんの感想を語りながら、その中に大塚さんの思想が込められています。

 ふりて消え溶けて透きゆく春の雪かく柔らかに時は移ろふ

 大塚さんは大病を患い、何度も大きな手術を体験されています。私は淡々と朗読し続けました。

 「手術が終わりましても痛みは直りません。むしろ麻酔がさめてその晩あたりから却って痛みが出てまいりますし、いろいろの苦しみが多かったような気がします。けれども、もうすでにこの苦しみは確実に終わるんだという確かな約束が与えられている。その確信をもちながら過ごす日々というものこそ"かく柔らかに時は移ろふ"とおうたいになったその時間だった、と実は思いあたったわけなのでございます。ああこれだ、なるほど、この歌をおつくりになった方も、きっと何かそういう経験がおありになって、春の雪の溶けていくさまをお詠みになりながら、そういう心境がおのずからそこに滲み出てきたのだなと想像いたしました。あるいは間違っているかもしれませんが、私にはそう感じられました。

 ところが、最後の"かく柔らかに時は移ろふ"という1句には、それだけではない、まだ何か残っているというような気がいたしまして、いろいろと考え続けました。歌をお作りになったご本人の気持に踏み入りすぎたり、あるいは厚かましく歪めたり捏造しているかもしれないけれど、私はこの"かく柔らかに時は移ろふ"という言葉にはもっと不思議な輝きというか、光がつきまとっているような気がして、実は、こんな風に考えるようになりました。

 手術後の苦しみ、そうした肉体の苦しみから解放されるということだけではなくて、もっと人間の内面的な苦しみから救われる、あるいは脱(のが)れ出る、その心境もまたそこに表現されているのではないか。ある救いの確実な約束が与えられた、その救いはまだ実現していないが、いつか必ず完遂されるにちがいない・・・そういうときの心境ではないか、と。」
 
 この後、文章は現代人の心の苦しみについて、そして宗教についてふれながら続いて行きます。私は人の気配を感じながら、それを読み続けていました。

 すると、しばらくして「リハビリをしたいのですがどうしましょうか」と看護士さんが言われました。「あっ、ごめんなさい。リハビリをお願いします」と、私は本を閉じました。すると、看護士さんは「このまま本を読むのがいいか、リハビリをするのがいいか、本人に聞いてみましょう。折角の機会ですし、リハビリは明日でもできますから」とニコニコしながら言われました。

 A先生は、本を読み続ける方にYesのサインを送ってくださいました。

 私は最後まで朗読し、別れのときにA先生に握手を求めました。A先生はとても柔らかな表情で、握手を返してくださいました。彼の手はとても温かでした。

 私は情けない自分から逃げ出さず、A先生と喜びを分かち合うという課題に挑戦することができました。

 振り返ってみると、私はこの時、普通でいることの勇気をもたず、A先生に特別な人間であろうとしています。もしそれが失敗していたとしても、失敗を受け入れる勇気があり、再度A先生のお見舞いに挑戦できれば、それは普通でいることの勇気をもっているということになるのではないかなと思います。


【棗田 眞一 2010年11月5日】