先日おいっこコマメが自分がつかった食器をシンクに持っていく途中で、コップの中にわずかに入っていた牛乳を床にこぼした。食器洗いをしていたわたしの背中ごしで起きた出来事だった。わたしが「なにを学んだか聞こう」と思うよりも早く、ママとババが立て続けに「あらー、どういうことかなそれは」「コマメ、ごめんなさいって言いなさい」と何度も告げた。うーん、ときすでに遅し。
コマメは自分がつかった食器を片づけようとした良い側面があり、今回のはただの失敗なのだけれど、叔母であるわたしがしゃしゃり出るのも違うかと思い、食器洗いを続けた。コマメはなかなか「ごめんなさい」と口にすることができない。「ぼくのせいじゃない」と訴えていて、ママが「失敗してもごめんなさいって言わなきゃダメでしょう」と訴える。
ババは「ごめんなさいが言えないんだねえ」と言いながら、小声で「どうでもごめんなさいを言わんヤツがうちにもおった」と苦笑。もちろんわたしのことだ。子どもの頃のわたしは、「ごめんなさい」をどんなにしばかれても、頑なに言わなかった。思い返してみると、「謝罪をすることじゃない」と最初は思っていたのだと思う。そのうち、謝罪をすべきことであっても「ごめんなさい」を強要されることが競合的に感じて、「ごめんなさい」を言えば負け、「ごめんなさい」と言わなければ勝ちだと学習してしまったのだ。ええ、非常に良くないことを学びましたね。
それはそれとして、そのときはなんとかグズグズと「ごめんなさい」を言ったコマメ。そして今日、彼はスマホを見ながら柿の種(ジップロックつき)を移動させようとして、さらさら~っと袋の中の柿の種を全部じゅうたんにこぼしてしまった。わたしが「コマメ、それあやちゃんにもちょうだい」と言ったから、渡そうとしてくれたのだ。とても良い意図の行動の結末だ。そして現場には、わたしとコマメだけ。
コマメ「あ」
わたし「あらららら、こぼれちゃったね。どうしてこぼれちゃったと思う?」
(コマメ、スマホから顔をあげて姿勢を正すように)
コマメ「ごめんなさい(はっきり)」
わたし「ううん、あやまらなくていいよ。コマメ、あやちゃんにお菓子くれようとしたんだもんね、ありがとう。それより、どうしてこぼれちゃったと思う?」
(コマメ、こぼれたときの動作をする/袋を逆さまに持ってうっかりする)
わたし「うんうん、そうだね。次からどうすればいいと思う?」
コマメ「うーん(長く考える)」
わたし「あやちゃんも一緒に考えてみようか? それともコマメだけで考えてみる?」
コマメ「あやちゃんも一緒に」
わたし「わかった。あ、思いついたんだけど、言ってもいいかな?」
コマメ「うん」
わたし「次からはよそ見せずにあやちゃんに渡してくれたらいいね!」
コマメ「うんそっか!」
わたし「うん。いいことを学べたね! じゃあ、一緒に片づけてくれる? こぼれたの、袋に入れちゃおうか」
コマメ「うん」
本人の両親からはお片づけが苦手な子だと認識されているコマメだが、ちゃんと最後まで、一緒に片づけてくれた。「一緒に片づけてくれてありがとう」と伝えると、少し満足そう。
ところで、あんなに「ごめんなさい」が言えない子が、突然シャキッと「ごめんなさい」と言ったことに少し驚いた。言わないと怒られると思ったのかな。コマメは、ママの前だと突然ぐじぐじ言い出す特徴がある。普通にみたら、甘えん坊になるというやつだ。どうしたものかしら、と叔母としては思うのだけれど、よその子のことなのであまり介入しないでおこうと思う。わたしだけでも真心アドラーで接すればいいや。なんて、ちょっと偉そうに思う今日このごろです。
【立石絢佳 2018年2月】